女という存在(2)


東京で芝居の世界に飛び込むと同時に新宿ゴールデン街を知る。

アバンギャルドとしか喩えようのない髪形と服装のSママは、映画評論の仕事を副業にしていて、当時恐らく30歳くらいだったのではないか。大胆な顔立ちと気っ風のよさとで店は繁盛していた。毎週通い詰めるうちに、週1くらいのペースでカウンターを任されるようになり、次第にこの街との関わり合いが深くなる。この街というよりも、この街に通う人たちと云うべきか。素敵な女性は、やはり、いた。

或る映画会社のキャリアウーマンで、岸恵子より綺麗で、底なしの飲ん兵衛、当たり前だが男性に非常にもてた。会う度に連れの顔は変わり、そして彼らはいつも振られた。そんなYさんとわたしは幾度となくふたりで飲み明かす。見た目からは想像できないが、気丈で豪快な人だった。高音のハスキーボイスでよく笑い、よく飲んだ。そして5年ほど前に独身のまま亡くなった。二度と手の届かない人になってしまった。さて、当時の貧乏生活を支えてくれたのが前述のママだが、外で精力的に働いている女性の部屋は途轍も無く散らかっているということを教わったのもこのSさんだ。掃除を手伝ってくれないかと云われてマンションを訪ねると、まず物の多さに驚いた。当然、足の踏み場はない。靴、帽子、服、下着、化粧品、雑誌、食べ物、揚げ句の果てにはナプキンまで散乱した部屋のいちばん奥には50インチの大型テレビとセミダブルのベットが鎮座している。四畳半の薄暗い部屋でこぢんまり暮らしていたわたしは、こんな途方もない贅沢だけはすまいと思った。半日をかけて大掃除をし、お礼に好きな服を持っていってくれと云うので、おそるおそる真っ赤な木綿のネグリジェと緑のサテンのパジャマを選んだ。外出着は、わたしには派手すぎた。これだけで有頂天だった。

その後もSさんには試写会、韓国料理屋、鮨屋、蕎麦屋、焼き肉屋等に連れて行ってもらう。さすがに彼女は舌が肥えていて、タンシチューにガーリックトースト、にんじんのサラダに豆腐雑炊など、見た事もない手料理は恐ろしく洒落ていた。Sさんは映画に恋をした純情な少年のような人だ。店が移転してからは交流も途絶えてしまったが、相変わらず溌溂としているに違いない。

飲み屋のはなしはこれくらいにして、芝居の世界に続けよう。
先ず入った劇団では、緑魔子のように白いブラウスを着て宙吊りの檻の中で燃やされたり、真っ赤に染めたポリバケツいっぱいのうどんをぶちまけたり、セーラー服を着て啖呵を切ったりした。アングラということばが辛うじてまだ残されていた時代。公演後はみなでカップ焼そばをつまみに一升瓶を空け、哲学的な喧嘩をした。結局わたしは美人にはなれず、いつも知恵遅れか娼婦かスケバン役ばかりまわってきた。フランス語の発音練習の成果は、まったく披露されることはなかった。

その代わりに、書くことで世界を変えようと決意した。
食べていくことは、あまり考えなかった。贅沢をしなければ毎晩酒が飲めたし、アパートの奥さんが無償で管理人部屋の風呂と洗濯機を使わせてくれた。この好意に応えるべく、極くたまにわたしは犬の散歩をし、旦那さんのズボンの裾直しをした。くどいが、わたしは女性が好きだ。併し、それ以上に女性に好かれるらしい。彼女たちは見返りを求めないし、煩わしいことも嫌う。世の男性とはエライ違いだ。しかも、年齢に関係なく友人付き合いができる。本当のこころはお互い知りたくもないし、プライベートに立ち入ることもしない。ただお互いを尊重しあい、たまに軽い我が儘を云って甘えたりもする。このふわふわした距離感が絶妙なのだ。お互いの存在が好ましく、励まし、励まされ、しなやかに愉しく生きる、この流儀を心得た人たちとの出会いが、今のわたしをかたちづくっている。

不良のポーズをしてみても、この人たちにはお見通しなのだ。毛並みを逆立てて世間に歯向かう小猫を飼いならすように、自然と傍に寄り添っている。そんな女性に、わたしはなれそうもない。だからこそ、彼女たちのことを書き続ける。

時間は永久にありそうで、もう、僅かしかない。